管理人 ゆうき自己紹介

初めまして、ゆうきと申します。

この40代超貧乏オトコがオトコを磨いて、一度の人生を楽しく生きよう!
※お金持ちになりたい!モテたい!カッコよくなりたい!
というブログです。

今現在、しがないサラリーマン。

超偶然&超絶運で都内でいう超セレブ地区にマスオさん的に嫁実家に住んでます。

※家賃も払ってないし、ほんとダメオトコな状態。
※典型的な情報商材ノウハウコレクター

こんな状態を脱出したく、懲りずに(笑)ネットで稼ぐ術を磨きつつ、人生を楽しむつもりです。

よろしくお願いします!

 

 

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以下、わたくしの生い立ちですが

興味ない方は無視してすっ飛ばしてください。

※わたくしの備忘録的な、たまに更新されてますので・・・

 

 

197?年生まれ

今の超都会&超セレブ地区とはかけ離れた超ど田舎で生まれる。

両親の影響というより血液型?からか超自由奔放に育てられる。

父親は職人で特に休みもないまま俺と同じ年のころは働きまくっていた記憶がある。

 

 

幼少時~

内気な性格&人見知りもあったせいか・・・

幼稚園に入るまえ、入ったあたりはイジメられっ子だった。

このイジメられ体質?内気体質のまま弱い気持ちは社会人まで引っ張る。
もしかしら女の子と遊ぶ方が楽しかったかもな~?

 

 

小学時代~

幼稚園で引っ越しをして、このころから少しだけ自分の足の速さを自覚する。そう!この時期って足が速いってだけですこしクラスの人気者になれるって事ありませんでした?

昭和だけの話ですかね??

で、父親の職人活動拡大のためにさらに超ど田舎へ引っ越す。

 

中学時代~

引っ越してからの陰湿なイジメが多少あり。しかも女子。

いじめられてわかるのですが、相手って悪気ないんですよね。

小学校の頃に足が速かった面影はあるもののほかの男子に成長期についていけず?

運動能力、勉強ともに中の中?中の下くらい。

中1で初恋。相手は勉強も運動もできる子。

といって俺は・・・

この格差が勝手にどんどんさらに?内気にさせていったのかもしれません。

※初恋の子は竹内結子似

この時期は暗黒時期かも?

アメトークの中学イケてない芸人の気持ちは痛いほどわかる。

人生こんなモンか?と悟ってしまった瞬間でもある。

 

高校時代~

中の中で行きたかった高校からちょいレベルを下げて私立高校へ

※中学の担任に「おまえじゃ無理。」と言われたからだが、、、

はい、田舎定番のヤンキーが5割強占めてる高校です。

入学からビビりまくりでしたが、ある思いがきっかけで

アメリカンフットボール部へ入部それは・・・

中学時代の片思いの影響か?

「絶対にレギュラーになれるスポーツをやる!」を胸に

オフェンス11人、ディフェンス11人のレギュラー22人枠があるアメフトなら絶対に試合に出れるだろう!と。

小学校から得意だったドッチボールの特性を活かし、レシーバーというボールをキャッチするポジションへ

※アイシールド21でいうモンタのとこね!

アメフトって結局はコンタクトスポーツ。

要は強い奴、速い奴が活躍できるスポーツ。

内気だった少年”ゆうき”はガリガリなカラダもいいとこ、やせ過ぎで両親からは猛反対であった。

反対する理由としてアメフトのヘルメットやショルダー、スパイクなど一式そろえると10万円くらいはすると思う。

ガリガリで長続きしない息子に無駄金つかうつもりもなかったのだろう。

高校のアメフト部もそーゆー途中でやめる子もいるし、コンタクトスポーツという意味もあり、いきなり防具を買わせたりしない。

そう、体力づくり、カラダつくりからだ。

一応、マイナースポーツとはいえ全国でもまぁまぁアメフトでは有名だった高校なので

練習は想像以上に厳しかった。上下関係も厳しい。

入学当時はヤンキーから逃げるように生活し、勉強も適当。

そんな感じだったが、アメフトは全く別で楽しすぎた。

入部当時、先輩たちはタレントが多いせいもあったがアメフト専門誌のインタビュー、地方新聞掲載、地方テレビ出演と

田舎ながらに華やかさがあった。イケメンもそろっていたせいか?アメフト部は高校では別格な扱いだった。

アメフト入部したゆうき少年はアメフトで有名になる!が夢になった。

強いチームは練習がキツいのは当たり前、先輩のしごきもある。

だが、筋トレをして変化してくるカラダや小学生を彷彿とさせる足の速さが際立ってきた。

気づけば成長期が遅かったのだ。

2年時には線は細いが筋肉もつき、試合にも出るようになったので父親があんなにも反対していた

のにアメフトにハマりつつあった。そう、応援してくれる人がいるのも嬉しいことであり更に

頑張れるようになる。

頼られる選手に成長している手ごたえ&実感。

自分自身もアメフトにどんどんハマっていて、夢に近づける?と思った。

3年時になるころ、監督が「ベンチプレス100kgでもあげたら大学の推薦はどこでも通るぞ!

を耳にし、速い・強い選手になるべく昼休み時間はほぼ筋トレルームでトレーニングの日々。

まぁまぁアメフト界で有名な高校でも全国大会まではあと一歩というところでいつも負けていて本当に悔しかった。

あの頃の関東大会は東京1位が関東の1位というくらい東京勢は強豪!

それでも絶対に勝ちたい想いは変わらず朝練のため始発から終電くらいまで練習していた。
※田舎の終電は結構早い時間で終わるwww

その当時の3年メンバーがタレント揃いというのもありなんと!東京1位は撃破、さらには春は関東大会優勝まで!!!

更に更に、監督から「ゆうき、1部の大学から声かかってるからセレクションいってこい!」

まさか、まさか?? 俺が大学から???

父親もこのころにはアメフトにハマり毎試合応援来る程に好きになっており、大学推薦の話は喜んでくれた。

監督も嘘?で言っていたであろう、ベンチ100kgを信じてなんとかセレクションの7月くらいにはベンチプレス100kgはクリア。

セレクションには5,60人が大学に集まっていた。

有名高校がひしめき合っている。関西かも来てたし!!!

関東で優勝したチームが大学に行ったといってもセレクションに呼ばれたのは俺ともう一人。

最終的には8人がセレクションで合格するのだが・・・いま思えば出来レースだったのか?

そう、出来レースのうちの一人が俺であった。

勉強で到底はいることの出来ない大学(一応六大学)へ行けるチケットをGET!!!!!

あの冴えない自分が・・・自分自身がびっくりしている。

秋の大会はあと1歩で全国大会というところで負けてしまった。

気は抜けない、大学の準備しないと~とトレーニングしていたのを覚えている。

 

 

大学時代~

超田舎者が都会で一人くらし。

その当時は川崎₍南武線と田園都市線使える地域₎1K70000円くらいの部屋に住んでいた。といっても親のお金だけど・・・

※今考えればオヤジは月7万円とは別に生活費10万円、アメフトの諸費用、大学学費といくら払ったんだ???実際に聞いてみたとここの時期は年収1600万くらいあったとか・・・まぢ尊敬。

 

田舎コンプレックスのある俺は都会が華やか過ぎた。大学ではセレクション組のほかに付属校から上がってくる選手も沢山いたのだが。。。こいつらがイケメン揃い。高校からコンパやっているような奴らだ。

今は知らないが、アメフト部とコンパ。

これはほか大学女子からしたらちょっとしたステイタスがあるらしく、毎週のようにコンパが開催。

アメフト部1年は先輩のために開くコンパのために女の子と知り合いになっておく必要も仕事。

が、、、

極度の人見知り、中学イケてないを引きずってか?まったく役に立たなかった。

女の子と仲良くなりたい!!!!!!とは思ってもなり方もわからず、悔しい思いしたな~(笑)

ま、ある意味その上京した誘惑に勝ったおかげ。負けてるのか??

レベルの高い環境でアメフトができるのは毎日が幸せだった。

そして、もちろん大学の授業は受けてない。

ちなみに法学部。

1年時から試合には出してもらっていたが、とにかく先輩との絡みが嫌だった。上下関係はちゃんとあり、実力を上回っていたとしても、パシリには使われるし理不尽な命令も多々あった。

一緒の高校から同じ大学に入った高校の同期はその理不尽さに耐えきれず怪我をきっかけで辞めてしまった。

何故?その理不尽さを乗り越えられたのか????

やっぱりアメフトが好きなのと仲間に支えれたんだと思う。

大学2年時は理不尽な事をいう先輩もほぼいなく、というよりポジション的に一番実力がある選手までに成長してしまった。同期のセレクション組で一緒だった2人になり天下状態。

そのもう一人はオールジャパン級の変人的なスター!

身近な所にライバルがいるのはある意味幸せである。練習ではそいつ以上に取り組めばおのずとジャパンに近づくからと思っていたからだ。

そして、2年から大学の決勝の舞台までいける経験をした。

個人競技で日本一になるのはとてつもない努力が必要だとは思う。俺がラッキーだったのは周りの大学が弱かったのか?当時、その大学に集まったメンツが良かったのか?とにかく人にも環境にも恵まれている。

なんにつてもそうだが、環境は本当に大事と気づかされる。

3年は一応すっとばして、4年になるころには学生アメフト界では一応、名前は響いていただろう。

ま、それよりも俺のライバルであるスーパースターは異次元の輝き・・
悔しい。。。

それにほかのポジションにも異次元の輝きを放つスターがいてココでもひと頭出きれない自分に幼少時からの引っ込みじあんというのか?こーゆー性分なのか?と見切りをつけていたかもしれない。

4年生にもなれば就職活動というものをし始める同級生がぼちぼちいた。

俺にとっては就職活動???な状態でまったく興味がなかった。4年間でまだ学生日本一を手にしていないのでどうすれば日本一になれるのか?と日々トレーニング、練習の毎日だったからだ。

4月に入った頃、4年生全員で20人はいただろうか?

全員で就職どこにするミーティングが行われた。2000年前半くらいまではどの企業もアメフト部があった。企業はアメフトにチカラも入れていた。大学の強さ、今まで頑張ってきた評価もあるだろう・・・アメフトある企業であればどこでも行けるような状態だった。

一流企業ばかりである!!!

その頃、卒業したOBに言われていたのが「お前ら体育会アメフト部で企業に行った場合、東京大学卒業と同じくらいのポテンシャルで企業は受け入れてくれる!」

たぶんコレは本当の事でOB達は一流と呼ばれる企業に就職している。

そんなこんなでその時期はいろんな企業からお食事のお誘いがたくさんあった。

 

「ゆうきくん、是非うちの企業へ!!!」
的なお食事会だ。

 

このころ、本当に若かったというか何も考えてなかった。アメフトさえ出来ればと思ってはいたけども目の前の大学日本一!という目標がデカすぎて社会に出る自覚がなさ過ぎた。まぁそんな意識の低さで社会人で痛い目を見るのだが・・・

結果から言うと、4年時で学生日本一は取れた

そこまでで燃え尽きてそのあとに控える真の日本一大会(※社会人と対戦する)はチーム全体が燃え尽きてしまってボロボロに負け。

※スラムダンクの山王戦みたいな・・・

それでよかった。
本当に4年間は一生を共にするような仲間が出来たし、濃密な時間を過ごしたから。

 

 

社会人時代~

はっきり言えば、大学の情熱の反動なのか社会人でアメフトを続けることはあまり興味がなかった。

と、同時に人生?社会の仕組みを知らな過ぎた。

就職氷河期というわけではなかったが、アメフトで選んだ会社に面接という名の雑談で入社。

今現在も健在の超大企業にサラっと当然のごとく入ったのはラッキー以外何もないのだが、やはり勘違いをしていた。


※昔こんなPC作ってた会社。

本来であればエントリーシートやらOB訪問、自分のやりたい事、自己分析、、、下手すれば就職浪人だって考えられた。

アメフトをまだ続けられて大学を卒業の流れのまま就職をする。自分の意志というより、まわりのみんなに足並みをそろえただけ。

強いていえば、人見知りで営業は向かないからインターネットやパソコンに興味があったので何を血迷ったのか?まったくPCも触ったことないのに・・・採用担当に”システムエンジニア”になりたいなどとぬかしていた。

今思えば安易であるが、多少は先見があったかもしれない₍笑₎

 

社会人になっても生活の中心はやはりアメフトだった。

が、入った社会人のチームは当時弱かった・・・練習は基本は土日のみの練習だが、練習時に二日酔いって・・・

そりゃ弱いは!!弱いくせに負ければ悔しがる。

大学時でも分かった事実だが、弱いチームほどクチばかりで”勝利”への拘りやプライドなんか薄っぺらいものだ。

ここでも感じるのはやはり環境っていうのは本当に大事だし、今までの環境は運もよかったのかもしれない。環境を知れないことは人生においても不運かもしれない。

チームは弱いなりにも社会人になって目標ができた。

『日本代表』 『海外プロ挑戦』

む、無謀なのか???

 

夢を叶える編

高校の時に監督から言われた、「頑張れば大学も行ける!」

あの頃、おぼろげには大学いけたらいいよな~は常々あった。ただ、いままでの先輩を見ていて大学には行っているが・・・いわゆるFラン大学。

が!何段も飛び越して六大学。

就職したのも今現在でも一流企業。
※まーココは夢を叶えたいと思った企業ではない
※※贅沢だ、

その一流企業に就職して、システムエンジニア職をこなしていく&アメフト。企業アメフトは基本的に練習は土日。平日はふつーのサラリーマンだ。

ちなみに就職した先のアメフト部は弱かった。学生より弱いんじゃないだろうか?

この時期は海外でアメフトのプロ活動が出来るというヨーロッパリーグに日本人が何人か挑戦している時期でもあり、、、

この時期もおぼろげながらにプロか~

な憧れはあった。

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